研究を仕事にするということについて

こんにちは。iP-U事務局です。

今回は「研究倫理ワークショップ・番外編」として、
大庭 亨先生がある受講生へ送ったメッセージを掲載します。


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Xさん こんばんは。大庭です。
 

 
ご質問ありがとう。Xさんは将来,文学の研究者になりたいと考えているのですね。

でも,歴史や文化の研究は,「実学」と違って社会に役立たないものではないかと,社会に必要とされていないのではないかと,少し気になっているのですね。だから,自分の好きなことを研究しようとすることは,もしかしたら間違いではないかと迷っているのですね。

 

ご質問に対する,私の考えを以下に記しましょう(長文ご容赦)。

  1. 歴史や文化の研究は、決して役立たないものではなく、むしろ不可欠なものです。
  2. 必要とされるのは、それ以外に答えを探す方法がないからです。
  3. 「好き」という気持ちだけで研究することを,私は違うとは思いません。

 

例えば、経済や政治や社会に関する現在の問題を、現代の状況だけで分析したり、判断したりするのは愚かなことです。過去に人類はどんなことを経験してきたのかということは、経済や政治や社会を適切に動かすための最も有用な教科書です。古来、中国や日本では、為政者の最も重要な素養は歴史と倫理でしたし、例えばいま話題のゴーンさんのことも、報酬の金額だけが問題なのではなく、彼の統治の仕方の問題でもあります。弱い隣国を支配下に置いた国王が、支配地域の国力の回復に伴って追い出されるといった例は、各国の歴史の中に散見されないでしょうか。自然科学は実験できますが、人間科学(社会科学)は実験できません。したがって、偶然にせよ意図的にせよ、これまでに経験したこと、これまでに起こったことを実験事実として分析して、そこから知恵を抽出するということは、自然科学の実験に相当する極めて重要な作業です。ゴーンさんはどこで、どのように統治方法を変えるべきだったのか(あるいはそうではないのか)、そのケーススタディを歴史に求めることは、ごく自然なことだと思います。
 

このことをもう少し考察すると、これまでに起こったことを分析する前に、その「これまでに起こったことについての記述」をどのくらい信用してよいのかということも、分析の対象であることに気づきます。また、その記述内容を分析する視点も、決して一つではありません。どんな視点で物事を見るかということは、分析や判断の結果を180度変えることすらできる、非常に重要なファクターです。ニュートンやライプニッツは、力学や微積分の中に神を見ようとしたのでした。であるなら,彼らを近代的知性と見るのは、近似解に過ぎないのではないでしょうか。その時代、その時代の「時代の精神」(常識とか共通了解のようなもの)によって、人々の考え方も、人々の行動の仕方も制約を受けています。「時代の精神」を明らかにするのは、歴史や文化の研究者の仕事です。
 

人類が経験したことから知恵を抽出すること、その抽出方法(視点)そのものを開発すること、その成果を社会に公表すること、これが歴史や文化の研究者(歴史や文化についての学問)の役割だと思います。そしてそれこそが、経済や政治や社会に関する現在の問題を解決する手段になるのです。歴史や文化の研究の意義を、「人々の心の豊かさの涵養」だけに求める必要はないのです。
 

中世社会になぞらえて言うなら(やや大胆に近似するなら)、学者(研究者)とは、イコールお坊さんです。この世界の成り立ちを理解し、その原理に基づけば、(人々の、または自分の)過酷な生のあり方を変えることができるというのが、ヨーロッパでも日本でも、当時の「時代の精神」でした。空海や道元は中世日本の第一級の秀才達ですが、彼らもそう考えたのだと思います。この世界の成り立ちを理解する手がかりは、当時にあっては経典であり、宗教的体験でした。そして、その原理に基づく祈りや呪術が、人々を救う力を実際に持っていたのです。原理をより深く理解し、より強い「救う力」を得るためには、全身全霊を上げて修行しなければなりません。その結果として、お坊さんは食糧生産活動から遠ざかり、人から施しを受けて生きることになります。その施しは、お坊さん(学者)にとっては、身につけた知恵を人々に還元するための理由であり、施す側の人々にとっては、過酷な生のあり方を変えるために全身全霊を捧げる人への敬意、あるいは呪術の力を優先的に享受するための権利なのです。この構図は、現代でも全く変わっていません。研究が学問であるためには、一定の条件を満たす必要があります(「研究倫理ワークショップ」でお話ししましたね)。学問としての質を高めていくことと、社会にその研究の成果を還元していくことです。修行に励み、呪術の力を高めるということですね。
 

私は、空海も道元も、最初から人々を救いたいという気持ちを持って研究(修行)していたのだろうと思います。しかし、本当は「世界の成り立ちを知りたい」という気持ちの方がずっと強かったのだと彼らが告白しても、全く不思議を感じません。より強い気持ちで研究する人でなければ,よく効く‘まじない’(良質な研究成果)を手に入れることはできないからです。だから、「好き」という気持ちだけで研究をすることを、私は違うとは思いません。中世ヨーロッパ史の泰斗であった阿部謹也は、かつて自分の先生から、研究テーマを選ぶときには「それでなければ死んでしまう」ようなことをテーマに選べとアドバイスされたと言います。「それでなければ死んでしまうほど好き」なことなら、一生を支える研究になります。そして,その研究が上記の条件(質を高める,社会に還元する)を満たすなら、それは学問になります。つまり、人々を救う呪術になるのです。だから、文学にせよ自然科学にせよ、「好き」を追求してよく効く「呪術」にするというところこそが大事なのだと,私は思います。